筋違道とは?
「この道は、6~7世紀頃造られたと推定され、聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥京へ、黒駒に乗って通われたと言われる伝承から「太子道」の名で残っています。また、古代の道の上ツ道・中ツ道・下ツ道は、ほぼ南北に通じているのに対し、太子道は斑鳩と飛鳥を結んで斜行していることから「筋違道」とも呼ばれています。今日、太子道の痕跡は、川西町島の山古墳の東側付近から三宅町屏風、伴堂を経て田原本町黒田、宮古あたりまで見られ、現在も主要道路として機能しています。沿道には、太子創建と伝えられる法楽寺(黒田)、太子が途中休息したと伝える「太子の腰掛石」、「屏風」があります。」 ←
(近鉄黒田駅前にある看板より)かつて、聖徳太子が愛馬に乗って何度となく往復したと言われる道。
川西、三宅、安堵、この辺りは普段生活していても滅多に訪れることがありません。
どんな風景が広がっているのか、少し個人的な興味もあって、取り合えず、法隆寺駅から
近鉄田原本線の黒田駅までを歩いてみることにしました。


法隆寺南口を出て少し歩き、左に折れて富雄川にかかる七鳥橋を渡って、川に沿って
車道を北上します。法隆寺自動車教習所が見えたら、その次を右に曲がって、
安堵町の中に入っていきます。
進んでいくと、昔からの集落があり、古い民家が集まっています。う~ん、いい感じです♪



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飽波神社安堵集落の中にあります。この一帯だけ鳥のさえずりが凄いです。


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太子が通勤途中に休憩された?
腰掛石そして、何人かの人に聞いて(方向音痴なもんで(^_^;))やっと辿り着いた
『富本憲吉記念館』
文化勲章受賞の陶芸家、
富本憲吉の生家を改築した美術館です。
古い安堵集落の中に溶け込んでいます。
親切なやさしいおじ様(館の人)が一緒について説明してくれました。お蔵を改装した陳列室です。写真は撮れていませんが、もう一つ立派な陳列室あります。




富本憲吉は、自分の作品に高価な値がつくのをあまり好まず、日常使い出来る器の制作にも
関心を持っていたそうです。

実際に富本憲吉が愛用していた離れ屋も見ることが出来ます。
私は陶芸の神髄はよく分かりません(~_~)そんな人でも、集落の中を歩いて訪ねて行く
だけでも建物が古くて雰囲気があるので楽しめると思います。
富本家はかなり由緒ある裕福な家だったようです。
だとしても、どうして大和ののどかな古い安堵村で育った人が、この様な当時(明治~大正)
としてはかなり最先端でハイカラな感覚を身につけたのか、それを不思議に思いました。
奥様も、時代を先取るような新しいタイプの女性だったということです。
さて、記念館を出て安堵中学の方へ広い道を南下し、ここで左に折れてあの青いお家の
『樸木』さんに向かいました。
このランチタイム。はまた後日レポートします。
まだ筋違道に入るまで、もう少し歩かないといけません。
が、今日はここまでです。